渡辺英樹(SF書評家、元名古屋大学SF研究会、名古屋SF読書会主宰)
今回初めて選考会に参加したが、どの作品もレベルが高く、選考は大変悩ましかった。結果としては、圧倒的な迫力により市川春子『宝石の国』が大賞に、賛否は分かれたが話題性という点から空木春宵『感傷ファンタスマゴリイ』が特別賞に決まったが、どの作品が賞を取ってもおかしくないと思われた。以下、各作品について個人的な感想を記す。
市川春子『宝石の国』全13巻〈講談社アフタヌーンKC〉
本作は、2012年より雑誌〈アフタヌーン〉誌で始まり、12年の長きに渡る連載を経て2024年に完結し、最終13巻が刊行された。人類滅亡後の地球に存在する宝石たちが、月からやって来る謎の狩人と戦いを繰り広げるアクションSFであると同時に、人間とは何か、生命とは何かを根源的に問うスケールの大きな哲学SFにもなっている。その意味では、小松左京『果しなき流れの果に』や光瀬龍『百億の昼と千億の夜』の系譜を継ぐ作品とも言え、本格SFとして高い評価を受けて然るべきであるとともに、ジェンダー的な観点から見ても大変興味深い作品となっている。
はるか未来、地球に流星が六度衝突し、世界は激変した。海に沈んだ人類は無機物と化し、微生物の働きによって結晶として生まれ変わった。人の形をした宝石たちは、僧侶姿の「先生」とともに、月からやって来る謎の狩人たちと激しい闘いを繰り広げる。体内の微生物によって宝石が動き、修復されるなどの細かな設定、後半で明かされる月人の正体など、SF的な仕掛けも実に凝っていて読み応えがあるが、ここでは宝石たちのジェンダー的側面から見ていきたい。
この世界では、無機物が何億年も地中をさまよった後に、インクルージョンと呼ばれる微生物の働きで動くようになり、人の形をした宝石として生まれる。二十体を超える宝石たちは、すべて華奢な体型をしており、外見は女性的だ。しかし、異界からやって来ては宝石の身体を狙う謎の月人と戦うため、宝石たちは剣を持ち、男性的に振るまわざるを得ない。主人公フォスを始め、多くの宝石は自身を「僕」「俺」と呼び、最強の戦士ボルツや医師ルチルの言動はより男性的であり、最年長のイエローダイヤモンドは皆から「おにいさま」と呼ばれ、慕われている。宝石たちは皆「男装の女性」がもつ性差攪乱を最初から備えており、それが本作の大きな魅力の一つとなっている。しかし、それだけなら、宝塚歌劇団のドラマや戦隊少女ものの面白さとそれほど変わらない。本作独自の特色として、すべての宝石たちは無機物であり生物学的な性(セックス)を持たないがゆえに、かえって性的役割(ジェンダー)のみが浮遊する一種のユートピア的な空間が一つの異世界として成り立ち、その中で宝石たちがそれぞれの役割を果たしていくという点が挙げられる。SF的な設定によって、ジェンダーがより際立ち、それがセックスによらないものだということが明示される。まずは、ジェンダーSFとしての設定が秀逸であることが、本作の第一の素晴らしい点である。
また、物語の前半において、男性的な風貌を持っているのは、大柄でたくましい身体を備えた僧侶姿の「先生」だけであり、ここに、男の「先生」が大勢の女生徒を従えて束ねていくという旧来の家父長制に基づく(ように見える)疑似家族が誕生する。これを疑似的な「女子高校」の一クラスと見てもいいだろう。宝石たちは制服(のように見えるもの)を着用し、自らの住まいを「学校」と呼んでいる。日頃から「先生」を崇拝し、危機に陥ったときには「先生」を頼り、「先生」もその信頼にしっかりと応える。宝石たちは集団の一員として、戦士、見張り、医師、司書、研究者、服飾デザイナーといった役割をこなし、敵と戦うことで求心力を備えた集団が機能する。この世界にあるのは、すべてが見せかけの「人間らしいもの」、とりわけ「人間の善性」が抽出されたものである。人間のように、愛情、妬み、怒り、喜びなどの感情を備えているので、一見ここには、正体不明の敵と戦う少女たちの悩みや苦しみを描くドラマが展開されているような錯覚にわれわれ読者は陥る。しかし、よくよく設定を見てみれば、宝石たちのうち年長の者は三千五百年、年少者でも三百年は生きている。身体を破壊されても、苦痛を感じることはなく、ある程度は復元可能である、など、人間とは異質な点が多々存在しており、これが物語後半の怒涛の展開への伏線となっていく。前半で作られたユートピア的空間を、後半にどんどん瓦解させていく、この過程で、ジェンダーのみならず人間のもつ属性を徹底的にはぎとっていき、人間性を無にしますよという予兆が既に物語の前半に表れており、後半で、実際に物語はそのように進んでいく。見せかけのユートピアが提示され、それが徹底的に破壊されていく描写には、優れた画力も相まって、圧倒的な迫力がある。最初から最後まで一貫性のある物語構成力=骨格の強さが、本作の第二の素晴らしい点だろう。
主人公フォスフォフィライトは宝石としての硬度が低く、壊れやすい。そのため、自身の希望に反して戦士としての役割が与えられず、博物誌を編むよう「先生」に命じられるが、それもうまくいかない。もともとアイデンティティが不安定なキャラクターであったのだが、宝石とは出自が異なる種族アドミラビリスの貝殻を自らの足に取り込み、金と白金の合金を両腕につけ、さらには、別の宝石ラピス・ラズリの頭部を接合するに至って、性格も変化し、より狡猾になっていく。物語の後半は、このフォス=ラピス・ラズリの謀略によって、宝石たちが分断され、月へと向かうグループと、地球に残るグループに分かれる。月人(げつじん)たちの正体が暴かれ、「先生」の秘密も明らかになる。そして、月に至ったフォスはついに「人間」として完成するが、その姿はグロテスクで醜い。ここまで、主人公の性格や外見を変えてしまい、そして、その変化を納得させるだけのロジックを備えた作品も他にないのではないだろうか。しかも、その後、フォスは「人間」から「神」へと変化し、長い長いときを過ごす。岩石生命体や「先生」の「兄機」(このユーモア感覚がまた素晴らしい)に出会い、とうとう最後は「無」へと至る。当初の性差攪乱から始まり、アイデンティティ攪乱、そして世界の崩壊へとすべての過程を一人の宝石に託して描き、しかも見事に描き切ったところが、本作の素晴らしさを示す第三の、そして最大の点である。
それぞれの宝石たちのキャラクターがあまりに人間的で魅力的なので、それだけで十分面白い作品なのだが、それだけでは、ここまでの高評価にはつながらなかっただろう。本書の価値は、上述したように、物語後半の超絶的な展開にある。長期連載のゆえ、前半で読むのをやめてしまった人も、ぜひともじっくりと最後まで読んでみてほしい。大賞受賞作として文句なしの作品である。
空木春宵『感傷ファンタスマゴリィ』〈東京創元社〉
本書は2011年に第2回創元SF短編賞佳作を受賞し、2021年に第一作品集『感応グラン=ギニョル』を刊行して高い評価を受けた作者による、待望の第二作品集である。空木の作品は残虐、残酷という言葉で形容されることが多いが、それは決して表面上の、言葉の上だけのことではない。目をそむけたくなるような残酷な出来事の中核にある「弱者の痛み」、肉体の痛みにせよ、心の痛みにせよ、その「痛み」のもつ現前性にこそ空木作品の特色があるのではないだろうか。空木の作品を読むとき、読者はドラマの単なる観客であることは許されない。いつの間にか舞台の上にあげられ、劇中に引きずり込まれ、思い切り心を揺さぶられ、登場人物と同じ「痛み」を経験することになる。効果的な二人称の使用、SF的な舞台設定、よく作り込まれた小道具は、すべてそのために奉仕している。その手際の鮮やかさ、切れ味の鋭さといったら、研ぎ澄まされた包丁を使いこなす一流のシェフのようだ。
たとえば、本書収録の「4W/Working With Wounded Women」では、上甲街(アッパー・デック)と下甲街(ロウアー・デック)に分けられた雙層都市(ダブル・デッカー・シティ)を舞台として、下甲街に住む主人公ユイシュエンと彼女を取り巻く下層階級の人々の暮らしが生き生きと描かれている。薬指に埋め込まれたデバイスによって、上甲街の人々と下甲街の人々は量子的に結ばれており、上の者が負った傷は即座に下の者に転移する。これは「転瑕(てんか)」と呼ばれており、下の者は突如として自分に出現する傷とその痛みに耐えるしかないのである。互いの冥婚相手が誰かはわからないようになっている。この仕組みは「冥婚関係(エンゲージ・リンク)」、関係を支える量子システムは「因果機関(カルマ・エンジン)」と称され、併せて「回向(エコー)システム」と呼ばれている。DVや無差別殺人など、現実に存在する理不尽な暴力を象徴させた都市の設定は見事で、皮肉を込めたネーミング・センスも素晴らしい。一見サイバーパンク風の設定にも見えるが、電脳空間ではなく、二つのリアルな空間を量子力学的なテクノロジーで結んでいるので、量子(クァンタム)パンクとでも呼んだほうが適切かもしれない。物語では、ある時期から突然ユイシュエンに現れる傷が増えてきて、不条理な暴力と痛みに耐えるため、彼女は、上の者が正義のために闘うヒーローであることを夢想する。もちろん、そんなはずはなく、この夢想は結末近くになって残酷に崩れ去る。悲劇は、ユイシュエンの同居人女性である妊婦メイファンにも、もっと残酷な形で訪れる。作中でのメイファンの怒りの声に触れて、心が震えたのは評者だけではないだろう。これまでも、「感応グラン=ギニョル」や「地獄を縫い取る」(どちらも第一作品集所収)などの諸作で描かれてきた弱者(障碍者や女性)が受けてきた「傷」のもつ意味が、ここではさらに深められ、そして、宥和的な結末に至る。読者に「傷」を突きつけて終わるのではなく、「赦し」にまで至っているという点で、初期作品からの深化が伺える。
また、ディストピアSFの結構を備えた「さよならも言えない」も見逃せない作品である。恒星〈アマテラス〉を公転する七つのうち三つの惑星に人類が入植してから千二百年が過ぎた。人類は、背が高く首が長いルークルー(轆轤)系、平面的な顔立ちのフォンイー(紅衣)系、黒い髪に六本の腕をもつツチグモ(土蜘蛛)系の三種族に分かれ、共生している。〈服飾局(メゾン)〉で働く主人公ミドリ・ジィアンは、局内コンペのためにチームを率いるリーダーだ。この世界では、拡張現実システムによって、遺伝子、場、系の三要素を踏まえたファッションのスコアが常に表示されており、その値が社会的信用を生んでいる。部下のスコアが低いことを気にしているミドリは、ある日足を運んだクラブで低いスコアのまま踊っているジェリーに目を止め、指導する。服を自分で作り、スコアに縛られて生きることを拒否するジェリーにミドリは惹かれていくが……。「4W」同様、本作においても、現実に存在する社会的抑圧が巧みにSF的設定に落とし込まれている。語られるのは、会社内での出世レースと世代を超えた愛を絡ませた古典的な物語なのだが、この設定のおかげで社会的抑圧はシステムによる暴力だという事実が浮き彫りになっており、かえって新鮮な感動を生んでいる。
以上二編が抜きん出た傑作であるが、他の作品も素晴らしい出来映えだ。表題作「感傷ファンタマゴスリィ」と「終景累ヶ辻(しゅうけいかさねがつじ)」は通底する響きを備えた超絶技巧短編である。前者は、十九世紀末にパリで流行した幻燈機(ファンタスコープ)を用いた魔術幻燈劇(ファンタマゴスリィ)を題材にして、性差混乱も含めたアイデンティティの揺らぎを描き、後者は、江戸の三大怪談の主人公、お菊、お露、お岩の時間線を交錯させて、何度も死を繰り返す様を描いている。どちらにも登場する「時の流れは一条でなく、交叉と分岐を繰り返す」という文章のとおり、自己とは死者を「観照」することによって死者を取り込み拡張していく複合的な存在であり、それが繰り返される限り、死者=幽霊が死ぬことはないのだとの認識が両者を貫いている。
最後に置かれた「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」では、VR空間で「魔女」を名乗り、依頼人のカウンセリングを行う人々と、その魔女たちを憎み、VR空間上で暴力を振るって魔女たちを殺してまわる「騎士団」との対立を描いている。ここでも、現実に起きている男性中心主義者と女性の権利拡張を求める人々との分断と憎悪が作中の設定に巧みに反映されている。魔女とは「固定された社会規範に抗い、女性や性的マイノリティについてだけでなく、すべてのヒトにとっての権利を常に考え続けるべき」存在であり、魔女の主張は、男への攻撃でも呪詛でもない」。男の側の権利が侵害されるとの意見に対しては「権利と利得とは別のもの」であり、「既得権益を失う事と権利を奪われる事はまったく別の話」と返す魔女の反論は揺るぎなく、鮮やかである(人権を無視してマイノリティを公然と差別する現実の人々に言ってやりたいが、彼らにはまったく理解できないのだろうなあ……と思ってはいけないというのが本作のテーマでもある)。作中では「魔女」と「騎士団」との争いが、最終的には解決への糸口を見出すところで終わっているため、解説にもあるとおり「希望」が残り、決して読後感は悪くない。これも、空木作品の新境地と言えよう。
全体としては、SF的設定を効果的に使用し、社会的弱者の立場から社会構造自身が孕む矛盾や社会システムのもつ構造的暴力を性的役割(ジェンダー)と絡めて鋭くえぐり出してみせた、極めてアクチュアルな作品が多い。性的に保守的な価値観と性的多様性を認めようという価値観との分断が進む現代社会において、本書を読む意義はますます高まっており、それが本書を今回の特別賞に選んだ理由の一つでもある。未読の方にはぜひとも一読をお勧めしたい。
坂崎かおる『嘘つき姫』〈河出書房新社〉
本書は、2020年に「リモート」で第1回かぐやSFコンテストの審査員特別賞を受賞し、以後多くの文学賞で受賞・入賞を果たしている作者の第一作品集である。「リモート」を始め、全七編が収められている。「リモート」は、人型ロボットの筐体にリモートで男子中学生が接続されていると思っていたら、実はそうではなくて……という話。単純なオチ小説ではなく、もやもやとした読後感が残る作品で、表に見えている一面とその裏に隠されている真実の落差を豊かな言語感覚で描き出すという作者の特色がすでに現れていた。坂崎かおるは「嘘」をつくのがめっぽう上手い。十九世紀末、電気が実用化された頃のアメリカで、電気椅子についての所見を蓄えるため、決して死なない〈魔女〉がサーカスの見世物の形で何度も処刑される「ニューヨークの魔女」では、そんな〈魔女〉が実在しないことはわかっているけれど、あまりに日常感たっぷりに描かれているため、本当にいたのではないかと錯覚してしまうほどだ。この〈魔女〉が、抑圧された女性性の象徴であることは明らかであるが、それをこのような生き生きとした形で描き出すことができる作者の才能は並ではない。文章は平易で端正、無駄がなく読みやすい。つるつる読めるが、読み終えたあとに余韻が残る。響きがある。そんな作品集である。
本書の中でとりわけ印象に残ったのは、比較的長めの表題作「嘘つき姫」と、書き下ろし「私のつまと、私のはは」の二編。前者は1940年、ドイツ軍が侵攻してきたフランスにおいて、母の死により孤児となったマリーと、その直前にマリーの母に救われたエマの二人が姉妹を偽装し、戦火の中を生き延びていく物語。嘘をつかねば生きていけない運命のもと、マリーのついた嘘と、エマのついた嘘が交錯し、複雑に絡み合う。手記の形をとっているため、読者もまた二人の嘘に翻弄され、小出しにされる真実に戦慄する。豚が殺される過程とドイツ兵とを重ね合わせた場面は出色の出来。真実が直接描かれていないだけに、より想像力が刺激され、恐ろしい。この手法は、坂崎作品のあちこちで見られるものだ(たとえば、本書収録作「あーちゃんはかあいそうでかあいい」のあーちゃんは結末で何をしたのか。扉の向こうには何があるのか。想像するしかないのだが、これは結構怖いことだ)。本編における〈嘘つき姫〉はマリーなのか、エマなのか、それとも両方を指すのか。2章がエマの嘘で、1章がマリーの嘘、3章が真実という一応の構成が見てとれるが、これも疑い出せばキリがない。いずれにせよ、嘘の果てに見いだされた、エマのマリーに向けての愛、これは信じるしかないものだろう。
「私のつまと、私のはは」は、「リモート」同様、近未来の日本を舞台にしたテクノロジーものだが、拡張現実装置(ARグラス)を身につけ、子育てのシミュレーションを行うレズビアンのカップルを主役にしている点に新鮮さがある。カップルには子育てに対する温度差があり、デザイナーの理子は、パンフレットを作る仕事の一環として子育て体験キット〈ひよひよ〉のデモ版を送られ、嫌々ながら育児シミュレーションに参加する。片や、看護師をしているパートナーの知由里は、最初からこのシミュレーションに積極的な姿勢を取り、子を望むレズビアンカップルの〈集い〉にも〈ひよひよ〉を連れて行こうとして、理子と対立する。知由里は〈ひよひよ〉が本当の人間の赤ちゃんであるかのように、心を込めて接し、あたかも母のように振る舞うのである。逆に、理子は相手は機械に過ぎないと考え、育児も極力合理的に行う。この違いが徐々にエスカレートしていき、ついには……という物語なのだが、結末で本当にぞっとさせられる場面がある。たった一文ですべてを想像させる、この破壊力を備えた構成は見事だ。途中で何度か知由里の家族に関する描写があるので、なるほど、そうだったのかと深く腑に落ちる。表面的な〈母のやさしさ〉という性的役割(ジェンダー)の欺瞞を鋭くえぐる優れた作品である。本書をジェンダーSFとして評価するなら、この作品は外せないだろう。
他にも、戦場で二足歩行ロボットを庇うようにして死んだ兵士の物語「リトル・アーカイヴス」、1962年にキューバ危機が訪れたアメリカの田舎町で、ロバによく似た生き物〈D〉の一人が虐待を受ける「ファーサイド」、電信柱に恋をした女性の話「電信柱より」など、幅広い題材を扱った象徴的かつ寓話的な作品からも作者の才能の豊かさがうかがわれる。また、抜けた歯をモチーフとして女性から女性への奇妙な愛の形を描く「あーちゃんはかあいそうでかあいい」、小学生が爪を集めて埋めると指が生えてくる、異様な状況を淡々と描いた「日出子の爪」は、どちらも〈身体から切り離された身体〉が重要な役割を果たしている点が印象に残った。ありそうでない話。奇妙な味。少し不思議。肉体性を備えた精神的な物語。どう形容しても、ちょっとずれる。そこにこそ本書の魅力がある。とりあえずは、世の中の矛盾や残酷さをストレートに描かず、周辺を描くことによって逆に浮き彫りにしていく点に坂崎作品の特色があるようだ。第一作品集ということもあり、まだまだこれから伸びていく作家だと思う。今後の活躍に大いに期待したい。
長山靖生『SF少女マンガ全史――昭和黄金期を中心に』〈筑摩選書〉
本書は、主に1975年から1985年にかけて、昭和五十年代に全盛期を迎えた「SF少女マンガ」というマンガのサブジャンルについて概説的に記述した歴史書であると同時に、膨大な作品の粗筋を丁寧に辿って、該博な知識をもとに作品論を語り、何人ものマンガ家については作家論にまで至るという優れた評論書ともなっている。米沢嘉博に『戦後少女マンガ史』『戦後SFマンガ史』(ともに1980年)という先駆的な試みはあるが、記述はどちらかと言えば歴史を語ることに重点を置いており、作品論としては踏み込みが浅い。「SF少女マンガ」に対象を絞って、深く掘り下げ、ジェンダー的な視点も取り込んで作品を論じているという点で、本書の価値は大きく、今後のマンガ研究の里程標となるだろう。
対象を絞ったと言っても、著者のマンガに関する歴史的射程は広く、第1章の概史では、奈良時代の絵巻、江戸時代の読本、明治時代の風刺画を経て、大正から昭和初期にかけて、コマに分けてストーリーを勧めるマンガ物語が成立したことが記述される。大衆に向けた少年雑誌、少女雑誌の創刊もこの頃であり、画家による雑誌の口絵や挿絵、小説、読者投稿欄、絵物語といったライバルに交じってマンガが成長していく。戦後の少女マンガは、手塚治虫や石森章太郎、ちばてつやといった男性マンガ家が描く悲哀ものが中心であった。活動の中心が徐々に、わたなべまさこ、水野英子、牧美也子、今村祥子ら女性マンガ家に置き換わり、内容も固定観念化された少女像、女性像をはみ出していく過程を著者は丁寧に記述していく。里中満智子、美内すずえ、細川智栄子、西谷祥子らがデビューし、SFも描いていく。「SF少女マンガ」と言うとどうしても萩尾望都、竹宮恵子らいわゆる二四年組から始まったような印象を還暦前後のわれわれ世代は持っているが、このような萩尾・竹宮以前の前史の存在を俯瞰的な視点から正確に記している点にも本書の価値はある。
第1章で触れられているように、手塚の『リボンの騎士』(1953〜67)は、主人公サファイアが女性として生まれながら男の心と女の心をもち、男性として育てられるという異性装ロマンスの嚆矢であり、後の池田理代子『ベルサイユのばら』(1972〜73)へとつながっていくことはよく指摘される点だが、著者は、これに加えて、水野英子『白いトロイカ』(1964〜65)に描かれた「自ら考え行動する革命的女性像」を引き継いだ点にも『ベルばら』の革命性があると説く。この指摘は重要である。少女マンガの歴史自体に〈男性が女性のために描いたもの〉から〈女性が女性に向けて描いたもの〉へと変化していく過程があり、さらにSFについても、1960年代には「女性にSFはわからない」といういわれのない偏見があり(本書に引用されているとおり「女の子にはS・Fが分らないのだというのです。ホントかしら…」と萩尾望都が自作「精霊狩り」内で記している)、この男性を中心とした二重の抑圧状態から逃れ、自由な創造力と表現力が爆発した時代こそが「SF少女マンガ」が花開いた昭和五十年代であるという認識が、本書には一貫して流れているからである。
第2章では「挑発する女性状理知結晶体」と題して、山岸涼子、倉多江美、佐藤史生、水樹和佳、清原なつの、佐々木淳子、樹なつみの七人を取り上げて、深く論じていく。マンガ家と作品の選び方が実に秀逸であり、彼女らに共通する特色を、非合理に対する論理、無意識や夢想に対する知性を重んじることとして掬い上げている。もちろん、彼女たちの作品がそれだけで割り切れるはずもなく、作品も描かれる人物も多様であることは承知のうえで、である。作中人物には、山岸涼子『日出処の天子』(1980〜84)の厩戸皇子のように「合理主義によっても自由を得ても、満たされることのない人間存在の業の深さを象徴している」人物もおり、佐藤史生の作品には「知性への敬虔なまでの信頼」があるものの、後期の作品には「科学主義から神秘主義への傾斜」がみられる。「コンピュータ社会の精神的側面と、多層的な神話学を融合させた」佐藤の代表作『ワン・ゼロ』(1984〜86)を論じ、やはり神話的作品である水樹和佳の大作『イティハーサ』(1987〜97)を神話学的に論じた後で、両者の共通点は「時間の回帰性」にあると看破してみせ、「戦闘より理解や宥和による克服に努める姿勢は、萩尾から佐藤や水樹へ、さらに後継たちへと引き継がれているSF少女マンガの精神だった」と結論づけるあたりの流れは鮮やかで、全体を通しての著者の主張もここによく表れている。この章と萩尾望都を論じた第4章は、評論書としての本書の白眉である。
第4章はまるごと萩尾論に充てられている。対象を「SF少女マンガ」に限っているので、取り上げられた作品は「あそび玉」(1972)『11人いる!』(1975)『百億の昼と千億の夜』(1977〜78)「左ききのイザン」(1978)『スター・レッド』(1978〜79)『銀の三角』(1980〜82)などの諸作で、『ポーの一族』(1972〜76)や『トーマの心臓』(1973〜74)には部分的に触れられているが、本格的に論じられてはいない。著者は「あそび玉」には「当時の画一的な社会の価値観に違和感を覚える萩尾自身が投影されている」と述べ、和解的な結末に「暴力的革命に代わる、より先進的な取り組み」を見出している。『11人いる!』では、性別を自己選択できるフロルの存在を通して「男性と対等であることを自明として生きる女性」を描き出した点が画期的であったと述べる。ただし、フロルは女性を選択して男性であるタダとの結婚を望むのであり、男性を選択して男性を愛するわけではない。「萩尾作品は文化的伝統や社会規範による人為的なジェンダーを乗り越えていくが、生物学的差異の人為的操作には懐疑的なようだ」という著者の指摘は鋭い。他にも、「X+Y」「ハーバル・ビューティ」(84年)、『マージナル』(85〜87年)など、萩尾SFには性別の揺らぎや偏りをテーマにした作品が多く、そのために丸ごと異星の生命体系を創作した場合もある。SFという手法がいかに萩尾作品にマッチしていて、そしてそれらの作品に他の多くの少女マンガ家が刺激を受け、多数の作品が生み出されたかを本書は克明に記録しており、SF少女マンガがなぜこの時期に爆発的に広がったのかという問いの答えにもなっている。要するに、萩尾望都SFの衝撃があまりに大きく、当時の(今も)男性優位社会の抑圧を受けていた少女らが強い共感を寄せ、また画一的な社会規範をよしとしない男性読者をも含んで、大勢の読者を惹きつけたということだ。SFにおいては文化や社会を自由に設定することができ、その中で女性が「女性性」を保ちながら男性と対等な関係を結び、活動していくことが可能だ。理想的な男女関係、ひいては人と人との関わりがそこにはあると著者は言う。たとえ闘いや軋轢を描いたとしても、SF少女マンガでは和解と宥和を結論に打ち出すことが多いのは、やはり萩尾SFの影響力の強さだろう。八五年以降も萩尾望都は精力的にSF少女マンガを発表しており、本書は最新作『ポーの一族 青のパンドラ』(2020〜連載中)に至るまでの諸作を丁寧に紹介し、論じている。現状への目配りを忘れていないところも本書の優れた点の一つである。
第3章と第5章は、個々のマンガ家の作品紹介という面が強く、本書の歴史書としての側面がよく示されている。取り上げられたマンガ家は、「思考するファンタジー」と題された第3章で山田ミネコ、大島弓子、竹宮恵子、坂田靖子、日渡早紀、川原泉の六名。「孤高不滅のマイナーポエットたち」と題された第5章で岡田史子、内田善美、高野文子の三名。いずれも個性的で表現力に秀でたマンガ家ばかりなので、本書を読んで、初めて(または改めて)作品に接することもまた一興だろう。
おそらくは、本書を読んで、これも足りないあれも抜けているといった文句を言い出す人たちも出てくるだろうが、本書の偉業の前では取るに足らぬことだ。膨大な作品を読みこなし、分析し、批評するのは大変労力のかかる作業である。それを踏まえたうえの言葉でなければ、つまらぬ文句に耳を傾ける必要はない。総じて、視野の広さ、構成の見事さ、分析の深さで本書に並ぶものはない。SF少女マンガの奥深さを知るのにうってつけの一冊である。
宮野由梨香「光瀬龍『百億の昼、千億の夜』の彼方へ」 荒巻義雄・巽孝之編『SF評論入門』所収〈小鳥遊書房〉
本論は、第3回日本SF評論賞を受賞した「阿修羅王はなぜ少女か 光瀬龍『百億の昼と千億の夜』の構造」(〈SFマガジン〉2008年五月号掲載、以下論文Aと呼ぶ)を改訂した論文(以下論文B)である。掲載当時、論文Aを読んだ時の衝撃は忘れられない。ハヤカワ文庫JA旧版巻末に収められた光瀬龍の「あとがきにかえて」に引用された経典の内容が、実は光瀬のオリジナルであったことを解き明かし、なぜそのような創作を行ったのか、さらに『百億の昼と千億の夜』(以下『百億』)の中で阿修羅王を少女にしたのはなぜかを考察した内容は極めてスリリングな知的探求心に満ちており、たどり着いた結論にはなるほどと納得させられたものだった。
論文Aを要約すると、光瀬が創作したという経典では、阿修羅王が乾脱婆(かんだるば)王の一人娘に恋をし、結婚を申し込むが異教徒であったため断られ、乾脱婆王は天輪王に助けを求め、天輪王が帝釈天に出陣を命じて、阿修羅王との戦いが始まる(前述「あとがきにかえて」より)。しかし、宮野の調査ではこのような経典は実在せず、実在する経典では事実関係がむしろ逆で、阿修羅王の娘を帝釈天が凌辱したため、阿修羅王は怒って帝釈天を攻めるという内容になっていると言う。なぜ光瀬はこの話を改変して新たな経典を作り、しかも、物語中では阿修羅を少女として造形したのか。そこには、光瀬自身の結婚をめぐる経緯が関係しているというのが宮野の説だ。光瀬は、三十歳のときに四つ年下の女性と知り合い、五年後に結婚したが、その際に相手の家に婿入りしている。女性が一人娘であったために、光瀬は自身の家を捨てたのだ。自身も息子一人であったため、家を捨てるにあたって、そこには悩みがあり葛藤があっただろう。それを「娘の父」との戦いととらえれば、光瀬の立場は新たな経典における阿修羅王の立場と同じとなる。阿修羅王とは光瀬自身であった。それを示すために経典が創作された。そして、「光瀬龍」という存在自体も井上靖の小説から採られたペンネームであり、彼はそれを「少女」(結婚相手)と出会うことによって発見した。そのために、阿修羅王は少女なのだと宮野は言う。
阿修羅王が少女である理由がいささか弱いように感じたが、経典の謎解きには非常に説得力があり、肯ける内容であった。また、本論とは別になっているが、萩尾望都が『百億』をマンガ化した理由、多くの少女が『百億』に心魅かれた理由として、阿修羅王を少女にしたことによって『百億』が「少女と父との戦い」として読めるようになっていることを指摘し、萩尾望都が「少女の自己認識確立の物語」と捉えたこと、そう読まれる必然性がこの物語にはあることを挙げている。これも『百億』における性的役割(ジェンダー)を論じたものとして重要な指摘であったと思う。
さて、論文Aの要約が長くなってしまったが、論文Bはどうかというと、一読して驚いた。経典に関わる件はあっさりと終わらせ、後半部分を完全に書き下ろし、まったく別の論文と言っていい内容になっている! しかも、論文Aの結論は、実は初めから「別解」として提出されたものであり、本来の解は違っていたということが語られているのだ。それでは本来の解とは何か。『百億』には戦後社会の諸問題が織り込まれており、その社会に絶望し「誰にも言えないこと」をかかえた光瀬は小説の形でそれを出した。それでも作者がこの世に見切りをつけないのは「美しい少女」がいるからである、いや、この世に見切りをつけないため「美しい少女」を作り出した。それが阿修羅王が少女である理由であるというものであった。解答の是非はともかく、複数の解が存在する、そのこと自体『百億』が優れた小説である証拠であり、また、複数の解を導き出した宮野の『百億』に対する愛着の深さが感じ取れる。
論文Bの後半については、宮野と光瀬の個人的な親交と深く突っ込んだやり取りが赤裸々に語られており、あたかも光瀬の伝記小説を読んでいるかのような印象を受けた。宮野自身が「作者とは何か」論争と名づけているように、「作者の特権的な地位」と「読者の自由な解釈」とが激しく対立し火花を散らす展開からは目が離せない。ジェンダー的に読むならば、ここには「父と娘の対立」があり、本論を娘が父を乗り超えていく過程と読むことも可能であろう。また、アニメ版『海のトリトン』の歌詞に対する光瀬の感想を踏まえた「『虹の橋』が存在し得ていたのなら、彼と私は会う必要なんかなかった」という論文Bの結びからは、コミュニケーションというものは人と人とが伝達不可能であるからこそ逆に必要なのであるという強い思いが伝わってくる。いずれにせよ、宮野にしか書けない内容であることを考えると、本論(論文B)の価値は大きく、光瀬ファンのみならず、すべてのSF読者にとって一読すべき論文であると言えるだろう。




