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2024年度 第24回Sense of Gender賞
講評

石毛弓(哲学者、大手前大学教授)

それぞれの作品について、内容の紹介はすでに多種あるだろう。だから解説はせず、わたしの感想に終始することにした。すべての作品に対して、読むことができたのがなにより楽しかったですと、まずはお礼を述べさせていただきたい。

坂崎かおる『嘘つき姫』〈河出書房新社〉

自分のからだの内側に手をつっこんでかきまわす。『嘘つき姫』の読後感をひとことで表すなら、こうだった。その理由のひとつは、身体的なものの描写のせいだ。歯、爪、ねぶる舌、唾液、焼けた肉、柱の切断面などが、どこか生理的にかき乱されるかたちで供されるからだ。

もうひとつの理由は、「わたし」というものの境界を意識せずにはいられないからになる。なにが、どこまでがわたしなのかという疑問は、坂崎かおるの作品の多くに通底するテーマだ。タイトルになっている「嘘つき姫」は、それが顕著に表されている一作である。作中のどの部分であっても、読み終えたあと読者はそれが「誰の」体験なのか記憶なのか文章なのか物語なのかという所有格の迷宮に入りこまずにはいられない。さらにこの「誰」を引き受けるのが、一人の人間であるとはかぎらない。作中の記憶も語りも一人で完結するものではなく、さまざまに入り混じり、物語られるたびにちがう顔をみせるものなのだろう。

こう書くと『嘘つき姫』の登場人物たちは自他の境界があいまいなのかと思われるかもしれないが、そうではない。むしろ自分はどこまでもこの自分でしかないという、他者との根源的な断絶がある。だから登場人物たちはみな孤独だ。そして独りでありつつ他を欲する。こういったアンビバレントな状態は、たとえば坂崎の「嘘」という別のモチーフにも共通するものだろう。

坂崎かおるの作品は、読者に一方向の決まりきった納得をあたえない。また冒頭に書いたように、独特の肌感覚をもっている。それだけに、合わない人間にはとことん不向きな作家だといえる。そういった部分も含めて、わたしにとっては手にとれたことが幸運だと思える本だった。

宮野由梨香「光瀬龍『百億の昼、千億の夜』の彼方へ」 荒巻義雄・巽孝之編『SF評論入門』所収〈小鳥遊書房〉

「それ」と出逢った人がいる。「それ」は、人かもしれないしモノや思想、概念かもしれない。とにかく「それ」と出逢ってしまったら、一生逃れることはできない。べつにホラーの話をしているのではなく、人によってはそういったなにかがあるということだ(たとえばこれを書いているわたし、これを読んでいるあなたにとって、SFが「それ」なのかもしれない)。

宮野由梨香にとって『百億の昼と千億の夜』という作品そして光瀬龍という人そのものが、「それ」に相当するのだろう。そう感じた。

本論に記された宮野と光瀬の会話には、常になんらかのつっかえがある。コミュニケーションの不在ではなく、おたがいに発信はしているのだけれど届ききらない不明瞭さがある。のばした手が見当違いのところに当たってしまったかのような居心地の悪さがある。この伝達の部分的不和ともいうべきものが、SF界におけるジェンダーという問題を提示してみせている(宮野が描こうと意図したものではないだろうが)。そしてパターナリズム、ファザコン、マザコン、ミソジニー、プライド、ジェネレーション、防衛機制といった要素がその周囲にちらちらと姿を現す。

宮野は、光瀬はたくさんの煙幕を張る人だと書いている。また『百億の昼と千億の夜』は彼の私小説だといっている。本論の一読者であるわたしにとって、宮野もまた自分の周囲に薄い煙幕を張る人間のようにみえる。そしてこの評論は、宮野の私小説の一部にも思えるのだ。宮野は、これまでもこれからもくり返し光瀬龍という作家に立ち返り書いていくのだろう。そして、いつかそれらがひとところに集められたなら、その全体が宮野由梨香という人間を表す私小説になるのではないか。そんな気がしている。

市川春子『宝石の国』全13巻〈講談社アフタヌーンKC〉

気がつくと、あれはどういう意味なんだろう、そうだこのシーンはああいうふうに考えられるんじゃないかと頭をひねってしまう。こういうことかと思いついては手を打って、他人の意見にいやちょっと違うんじゃないかともの申したくなる。そんなふうに頭から離れない創作物がある。『宝石の国』は、わたしにとってこういった作品である。

ジェンダーという点にかぎってみても、さまざまなことに考えをめぐらせずにいられない。たとえば。宝石は一〇代の無性の人間態(上半身は少年で下半身は少女のフォルムをもつ)として描かれる。父性の代表であり機械である金剛先生の前で、宝石はネクタイをつけ半ズボンやスカートをまといヒールのある靴を履いて戦う。月人であり青年態をとるエクメア王子を相手に、宝石は姫となって結婚する。月で宝石はアイドルになる。月人になる。産む者であり母であるアユム博士と宝石が対峙することはない。フォスフォフィライトは人間態をとったときああいうフォルムになった。こういったことを、わたしはどう受けとめているのかと折々に自分に問いかけてしまう。

さまざまなシーンやトピックが頭の中をぐるぐるとうずまく。そして連想からル=グウィンの「オメラスから歩み去る人々」を読み返して犠牲と他力本願の違いを考えたり、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のワンシーンを思い出したりする。わたしにとって『宝石の国』は、かみ砕き呑みこもうとしながら口の中に残り続けるキャンディのようなものかもしれない。

Sense of Genderであり、かつまさにSense of Wonderなマンガ作品なのである。

長山靖生『SF少女マンガ全史――昭和黄金期を中心に』〈筑摩選書〉

読まなくても、表紙をみただけでいい本だと確信することがある。これもまさにそんな一冊だった。このタイトル、この作者で、おもしろい内容にならないわけがない。この勝手な信頼は、当然ながら裏切られることはなかった。

本書はおおまかに時代を追うかたちで展開するが、厳密な年代順ではなく章や節ごとに設けられたテーマに沿うかたちで進んでいく。また、あとがきに「私が一〇代、二〇代の頃に出会った少女マンガ家の作品を中心に取り上げました」とあるように、言及される作品の比重はいわゆる「昭和黄金期」に傾いている。

全5章のうち第1章では、SF少女マンガの萌芽期の様子やその表現、SFと少女マンガの関係、先駆者たちの業績などが紹介される。第2章以降は主として作家別に、その作品をSFという観点から紹介する。節に名前があるSF少女マンガ家は11名(たとえば第2章第3節は「佐藤史生——科学と神秘の背反する魅力」)、項では15名(たとえば第2章第5節第2項は「幻想にとらわれているのは誰か——佐々木淳子が問い続けたもの」)で、第4章はまるまる萩尾望都論にあてられている。また、名前を挙げた以外にも本文で多くのマンガ家にふれられている。それでもさらに論じたいマンガ家がまだまだいることをうかがわせる熱気に満ちている。

同時代を生きた人間であるという観点から書かれた本書は、熱いのだ。そして読むうちに、読者もまた自分の好きなマンガ家や作品について話したくなってくる。ファンは、好きなものについて語り合いたくなるものなのだ。もちろん膨大な資料を読み込み分析された評論と読者の感想を同列におくわけではないが、そうとわかっていてもSF少女マンガを肴に作者とおしゃべりがしたくなる。

これは、そんな心おどる一冊なのだ。

空木春宵『感傷ファンタスマゴリィ』〈東京創元社〉

——まさに、いまこの時代に読まれるべき一冊だ。

『感傷ファンタスマゴリィ』へのそんな感想をきいたとき、たしかにそのとおりだと思った。作品にこめられた問いかけと作者が提示するものを、多くの人に知ってほしいと願わずにいられない。

本書は五編からなる中短編集だが、わたしにはストーリーが終わったそのあとをさらに読みたくなる作品群だった。その気持ちをここに書いてみたい。タイトルになっている「感傷ファンタスマゴリィ」で、哲学者ヒュームが書いた一文を思い出した。彼は、自我とは「考えられない速さで継起し、絶え間ない移り変わりと運動のなかにある知覚の束もしくは集合」だといった。自我は時間的に連続して存在する同一のものではなく、そのときどきに現れる像にすぎないとしたのだ。ではこの束を、さらに「わたし」という個の枠組みから解放したなら、どんな存在が描かれ得るのだろう?

「さよならも言えない」のミドリは、自分にとってのきらめきとでもいうべきものを喪失した。さて、このあとミドリはどうふるまい、どう他とかかわっていくのだろうか。「4W/Working With Wounded Women」は、本書に収録されたなかでもっとも長い作品だ。個として区別されるための名前を最後まで記されなかった「男」にあたえられたものは、すくなくともユィシュエンにとっては復讐ではなかった(だからこそそれは一瞬だったのだろう)。そしてユィシュエンは、サイアクの寝覚めをあじわい続けている。本作の続編を望むという意味ではけっしてないが、右の薬指でつながれた二人に代表されるメッセージに社会がどのように反応するか/しないかが気にかかる。「終景累ヶ辻」では、幽霊の辻で路が幾度も選ばれる。己のために死ぬのだと高らかに謳うに至ったひとは、これからも辻をたどり続けるのだろうか、それとも? 「ウィッチクラフト≠マレフィキウム」で、作者は最後にある態度を描いてみせた。それはひとつのやり方ではあるが、では作者が次に別の作品で描くのはどんな態度なのだろう。

次は、次は——。そんなふうに、空木春宵がこれから書いてみせてくれるだろう世界が欲しくなる。それが『感傷ファンタスマゴリィ』を読んでいちばん強くわたしのなかに残ったものだった。

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